歌舞伎風俗通信

歌舞伎コラムです。
以前某雑誌に連載していたものの書き直し再録です。
その他いろいろうざいウンチクです。楽しんでいただけると嬉しいですー。
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# 大江戸男色事情:03「若衆茶屋」
= せっかくなので若衆茶屋ネタもう少し=

・寛延・宝暦のころ、1700年代半ばの、ちょうど江戸の中頃ですが、そのころの「男色楼(なんしょくろう、なんだかエロい響き)」について。

・一番多かったのが「芳町(よしちょう)」です。 

場所で言うと銀座線人形町駅の神田方面の出口出たあたりです。

芳町は芝居小屋が二つ並んでいたので「二丁街(にちょうまち)」と呼ばれた芝居街、日本橋の、堺町(中村座があった)、葺屋町(市村座があった)、のすぐ南側にあります。
チナミに、この東横が「元吉原」、浅草に移る前の吉原があった場所です。
この当時数件の置屋、揚屋、茶屋が並び、若衆100人以上いたそうです。



寺稚児



当然そのうち何割かは主に女形でお芝居に出ました。「芝居子」とか「色子」とか言われました。
上方のは「花子」と言ったらしい、「かげま」という単語をここでは意識的に使ってないのですが、「かげま」という俗称があったことはたしかですが、ちょっと、一般名称としてはどうかというのがワタクシの意見です。
後のほうにまた少し書きます。

あとは
・「木挽町(こびきちょう)」

今の歌舞伎座の真向かいあたりです。「河原崎座(または守田座)」があった、そのすぐそばです。

・「湯島天神そば」「芝明神そば」

これは、大きい神社の参道沿いはかならず遊興地だったので当然遊郭も多く、その一角に「若衆屋」もあったわけですが、
ターゲット客層はそれぞれ、近くにあった上野寛永寺、芝増上寺やその周辺のお寺のお坊さんたちでしょう。
僧侶に男色が多いかと聞かれれば、多かったに決まってますが(笑)、むしろ、「男なら比較的堂々と買えた」というのもあるかと思います。男なら店外デートもできるし(バレバレです)。

どうしても女のヒトがいい芝のお坊さんは、品川の宿場女郎と遊びに行きました。
官許遊郭の吉原はもちろん、舟でしか行けない深川も、駕篭で見世先に乗り付けられない決まりなのです。
品川は宿場なのでオッケー、姿を見られずに店内に入れますよ。
ってこれは余談です。

お寺と男色についてだと、
最もお寺にゲイが多かったのは平安鎌倉時代だと思います。
男は夜這いして結婚したあとも浮気するのが義務みたいだった時代、出家しちまえばまわり男ばっかノープロブレムですよね、小金のあるゲイは軒並み出家したんじゃないかと。
江戸時代は、後のほうで説明しますが、わりと結婚しなくてもオッケーな時代だったので、出家までしなくてもなんとかなったみたいです。

さらにお寺といえば、上野寛永寺、芝増上寺と並んで徳川の菩提寺であった、小石川の傳通院(でんづういん)。今もですが小石川、ワタクシ住んでましたが、見事にお寺だらけですが、この周辺には男色楼はなかったモヨウです。
樋口一葉の「にごりえ」の舞台になった花街が今の丸山福山町のあたりですから、あのへんに遊女屋はあったのかなあ。
代わりといっちゃあナンですが、「理心流」、新撰組の母体ですね、その道場がありました。傳通院の裏あたり。
柳町の坂の上ということですので、初音の湯の後ろの崖の上のへんかな(ローカルネタだなあ)。

理心流は、妙な伝統があり、3代続いて弟子を養子にして道場を継がせているのです。
近藤勇は4代目ですね。
子供がいなければ養子を取るのは、あの時代かなり気軽に行われていたことですが、ふつうは「もらい子」、子供のウチから育てます。
いい年した弟子と、そろって毎回「養子縁組」するなんて、アヤシすぎです。
ていうかヨメいたのかこいつら?
だいたい傳通院の裏ですから、寺ばっかです。道場の客層ターゲットであるはずの小大名(自前で大した道場を持てない)、大きい旗本なんかはあまりいません。小ぶりの武家屋敷はあったけど。
実際、道場、全然はやっていなかったようです。
どういう客とってたんでしょう(やめれ)。
いや、客に行ってたのかもですが(小坊主萌え?)(←やめれって)

気を取り直して、


・「麹町天神」 正確な場所わかりません。ていうか外堀の内側じゃん、旗本上屋敷が並ぶあたりですよ。四谷からバスで国立劇場に向かうと通るあたりです。
いいのかそんなもん作って。

・「塗師町(ぬしちょう)代地」「神田花房町」 どちらも神田の職人町だと思いますが場所特定できませんすみません。

この4カ所は文化文政ごろにはなくなっていたモヨウです。盛んだった「芳町」も、十数人に減ったそうです。
この人数じゃあ商売できねえですよねえ、客の好みだってあるしね(笑)。
そして天保の改革で全部滅びます。湯島では細々やってたらしいです。
 
| comments(0) | trackbacks(0) | 22:25 | category: 大江戸男色事情 |
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