歌舞伎風俗通信

歌舞伎コラムです。
以前某雑誌に連載していたものの書き直し再録です。
その他いろいろうざいウンチクです。楽しんでいただけると嬉しいですー。
<< June 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
# スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

| - | - | | category: - |
<< 江戸時代の貨幣価値:02  いろいろな貨幣単位 | main | 名前と官職の関係:01 >>
# 江戸時代の貨幣価値:03(上方編)
=江戸と上方はちがう国だからぁ、お金も違うの =
さて、江戸の経済だけならこれでいいんですが、
近松や西鶴読もうと思うと、これだけでは何の役にも立ちません。

そう、江戸は金経済、上方は銀経済。ああめんどくさい。
ただ、銀は10進法なので、覚えれば計算は楽です。

「両」は上方でも使います。高額貨幣。
あと「文」も江戸と同じに使います、日常貨幣、で、
「文」と並んで日常使うのが「匁(もんめ)」という銀の単位です。「目(め)」ともいいます。

「金」と「銀」との関係も変動相場制です。もちろん「銭」とも変動相場制です。
大阪は、今でいうと、円とドルとユーロが並行して使えたような街だったのです。

「一匁」はだいたい千円ですが、「60匁=一両」だったり「65匁=一両」だったりして「両」との関係は変動相場制です。
「130匁(つまり2両くらい)」のはずのものを、「最近の相場だから」と「1貫(1.7両くらい)」に安く計算されちゃう、
みたいなエピソードも存在します。
ていうかこれ安すぎです、ボられてます丹波の与作(近松)。

でも弥次さんや喜多さんは「一匁=百文」の感覚だったようです。
たぶん日常的な支払いもそれでOKだったと想像されます。
「今年にはいって銀がえろう高こうおますよって、百と十文払っとっておくんなはれ」とは
言われなかったモヨウです。

ところで、銀決済でも、江戸でも使う「一貫」や「一分」という表現が出てくるのですが、この「一貫」は江戸の「一貫文」とは違います。
「銀一貫目」です。
ほぼ100万円。
「一分」は「一匁の10分の1」で「10文」にあたります。100円です。
書いてあるものを見てもイチイチ「銀の」と注意書きはないことがあるので、前後関係から判断しなくてはなりません、気を付けよう。

あと、「匁」は「目」とも言います。
「銀五百目」とかね。
これは江戸でも使ったモヨウです。「贔屓のお客さんが祝儀に銀五百目置いていった」みたいな奇術があります。

ここまではガマンしますが、「銀一匁」を「一文」と言っていることが、たまーにあります、使い分けなさすぎです。
文脈から判断するしかないので死んだ気になってがんばって気を付けてください。

「銭」については江戸と同じですが、
上方の古い言い方に「一疋(ぴき)」というのがあります。
一文銭10枚(100円)のことですので、覚えておくと便利かもしれません。


激しく余談ですが、童謡の「はないちもんめ」の意味ですが、
よく、「遊女の値段」=「花」であると解説されますが、
1000円じゃいくらなんでも遊女は買えません。
ただ、遊郭の話ではあります。
「花」というのは、遊郭の料金システムで、「線香一本が燃えきるまでの時間、会える」というものです。
10分もないです。
「ちょっと会って話だけしたい」みたいなときに使えますが、
だいたいの場合、収拾付かなくなって追加料金を払うことになると思います。
キャバクラで「ビール一杯飲むだけ」というのに似ているかもしれません。ほんとに余談ですみません。

金銀合わせて表にすると、こんなかんじ です。
一番上にも表示、ここにも同じの。


江戸
・一両・・・・・6万円以上
・一分・・・・1万5千円
・二朱・・・・7千5百円
・一貫文・・1万円
・一さし・・・千円
・四当銭・・・50円
・一文(一銭)・・・10円

上方
・一両・・・・・・・・6万円以上
・一貫目(1000匁)・・100万円(銭「一貫」との違いに注意)
・一匁(10分)・・・・千円(たまに「一文」と書いてある)
・一分(10厘)・・・・百円(江戸の「金一分」との違いに注意)
・一厘(一文)・・・・10円
| comments(3) | trackbacks(0) | 17:54 | category: 江戸時代の貨幣価値 |
# スポンサーサイト
| - | - | 17:54 | category: - |
コメント
小津富之助(のちの本居宣長)は、富裕な松坂商人の子として生を享けましたが、生来商いが肌に合わず、長兄(養嗣子)が江戸表で死んだ21歳のとき、店を畳みます。その時整理した資産の残りが400両。いちおう利子生活者の状態だったようです。そこで、400両が現代の価値でいくらになるのか計算してみようと、いろいろサイトを探して、1両=6万円、というレートを探し出しました。すると、400両=24百万円。きょうび、これで利子生活者になれるのか知らん、と少々不安だったのですが、こちらの記事からしてもそう大きくは違わないようです。まあ、若い小津富之助が人生を考えたとき、医者になろうとしたのも、生活に不安はあまりないが、より安定した、自分にも他人にも誇れる職をもちたいという動機だったのでしょう。
| renqing | 2011/01/03 10:40 PM |

コメントありがとうございますー
利子生活者という点で、なんとなく疑問がありますよねー。
今は銀行にお金をあずけると利子が受け取れますが、
江戸時代にそのシステムはなかったと認識しています。
お金を貸して利子を受け取ることはできますが、
シロウトが仕事としてこれをやるのは、江戸時代も現代と同じく違法だったと思います。
誰かに個人的にお金を貸して利子を受け取っていたのかもしれませんが、
利子の額とともに、その相手の側の好意によっていた部分もあるのかもしれないですねー。
想像ですが(笑)
| よきこときく | 2011/01/05 6:02 PM |

>江戸時代にそのシステムはなかったと認識しています。

私も不案内なので、「これだ!」という証拠を挙げられません。ただ、経済史の専門家たちも、徳川期の金融経済に関してそれほど詳細に解明できているようにも思えません。この点で私が関心があるのは、寺社の金融機能です。まだ文献的証拠がありませんので、直感のレベルですが、頼母子講や伊勢講などの「講」のオーガナイザーとして寺社が大きな役割をしており、また、寺社に集まる様々な浄財の運用を意図的にしていたように思います。それが認められていたのも、神仏とのつながりでしょうが、ま、とにかく寺社がひょっとすると預金機能を果たしていたのではないか、というのが私の憶測です。特に、小津富之助(=本居宣長)は、伊勢松坂の人ですから、お伊勢様がらみの資金運用が出来た可能性はありそうな気がしていますが。
 明治初期の廃仏毀釈の狂気の中で、浄土真宗が生きながらえたのも、維新政府に本願寺が革命資金を相当融資していたことがあると私は見ていますが、そういう大名貸しを含め、寺社の金融機能(坊主の金貸し)に関して、学問的にあまり解明が進んでいないのが実体かと思っております。大風呂敷を広げましたがご容赦。
| renqing | 2011/01/11 3:56 AM |

コメントする









この記事のトラックバックURL
http://somikakuda.jugem.jp/trackback/74
トラックバック
Archives
Comments
Mobile
qrcode
Search this site
Sponsored Links